1970年(s.45) に「米第7艦隊を佐世保移転」の通知が・・・

 市民大学に行ったのですが、休日でもあり、いつもより聴講者が多く、若い年代が多かったようです。今回は、戦後の汐入駅周辺に関わる話が中心でした。
 昭和22年、当時の梅津市長は国に対して旧・EMクラブの返還を求めたが、米軍が使用中で返還できないとの回答。そのため、隣の空き地に木造2階建ての「市民会館」を建設。今では考えられないが、土地利用計画上の用途地域は「公園」だった。その後、昭和28年に隣接して「勤労会館」を建設。私が就職した昭和52年当時は、まだ使われていた。
 梅津市長は、財政難の市役所で「財政改革」に尽力したが、職員に大きな負担を強いたため、その反発を受けて昭和32年の選挙で落選。教育長であった長野氏は全国初の「革新市長」に。同34年には市民会館に隣接して木造の「結婚会館」が開館。
 一方、深田台には明治21年に東洋一といわれた海軍病院が建設される。しかし、関東大震災で倒壊し、今の米軍基地内に移転。その後、県立の救護院を経て市民病院となるが、昭和37年に火災で焼失。医師会からの要望もあって、市民病院は武山に新設移転。跡地に市民会館と結婚会館の機能を備えた文化会館が昭和40年に建設される。

すかなごっそ1.jpg
 勤労会館は、昭和46年に元の「信証学園」の用地を買収して、当初「職能更生センター」を開設、平成3年にヴェルク横須賀・勤労福祉会館が完成して現在地に移転した。職能更生センターは、昭和45年12月に「翌年6月までに米第7艦隊を佐世保に移転。日本人従業員5千人余は解雇」との通知があり、市がそれに対応して職業訓練を行うためのものだった。しかし、翌年3月に佐世保移転は中止となった。
 ベトナム戦争が長期化していた時期ですが、もし、佐世保に移転していたとしたら、その後の本市は、どのような道を歩んだでしょうか。井上・元助役は「米国の世界展開の中での縮小計画の一環だったが、私見ではあるが、浦賀ドックや旧海軍時代から続く艦船修理部の技術レベルの高さがあったのでは」と話されていました。そうであったかもしれません。

すかなごっそ.jpg
 昨日、みかん狩りの後、「すかなごっそ」に行き、パンジーを買ってきました。ここのパンジーは毎年よく咲きます。朝10時半頃でしたが、一時入場制限もしていました。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント